ZERO

いよいよ今回が最後のブログになる。

どうやら200回ジャストのようだ。

こんな僕にブログを書かせて頂く機会を頂いた小牟田編集長には感謝の気持ちでいっぱいです。

この場を借りてお礼申し上げます。

本当にありがとうございました。

 

さて、その後の自分は基本的な考えは変わっていない。

取引先や友人の満足に軸足を置いて考えている。

多少の浮き沈みはあるものの、なんとかなっている。

 

そう言えば先日野田くんに会った際に色々色刺激を受けた。

2020年4月からは会社も20期を迎えるので、少し変わった形で次のステップに向かえるように準備している。

 

今回自分史を書いて振り返ってみたのだが、幾つか分かったことが。

一つは若いうちの挫折経験からだ。

 

「社会には答えがない、理想にはたどり着けない」

 

ということ。

 

しかし、その理想を追い求める姿が人に与える印象になるのだろう。

ああすべきだ、こうすべきだという自分なりの枠にとらわれ過ぎて斜に構えていた時期を経た今だから思える。

 

次がにわかったのが

 

「大人って楽しい」

 

ということだ。

 

20代には自分が40代になった時の想像がつかなくて、もはや楽しい事など何もなく枯れていくのみだと思っていたのだけれど実際は全然違っていた。

はっきり言うと、楽しい部分は変わらない。

できる事も広がるし、行ける場所も増える。

僕に手を貸してくれる人や友人とも関係が深まる。

スニーカーやファッション、音楽の話も昔と変わらず会話に出てくる。

50代はどうなっちまうのか。まあ変わんないか。

 

そういえば先日ある取引先と飲んでいる時に、

 

「いつも僕に時間を作ってくれてありがとうございます」

 

とお礼を言ったところ、

 

「いや時間くらい取りますよ」

 

と言ってくれた。

 

これは凄く幸せな事である。

何故なら失った時間は決して戻ってこないからだ。

商売をしていると、多少なりとも金銭的な損をする事がある。

それは頑張れば取り戻せる。

しかし時間はそうはいかない。

昔には戻れないように、先に進む事しかできない。

 

振り返ってみて、僕と同じ時間を過ごそうと考えてくれる人が周りにいるということが、自分の財産だと気がついた。

家族、社員、取引先、友人全てにおいて人は鏡だと言うが、確かにそうだなと思う。

なので、その人たちに今まで以上に利益をもたらせるように今後も進んで行きたい。

この考えはこれからも変えるつもりはない。

 

最後に読者のみなさま、これからより進化するフイナムにどうぞご期待下さい。

今までどうもありがとうございました。

またどこかで。

兵、走る

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フィナーレに向かう前にこれだけ書いておく。

ユニコーンを見に行ってきた。

セトリは下記。

 

1.10Nuts

2.OH! MY RAD10

3.働く男

4.あなたが太陽

5.大航海2020

6.365歩のマッチョ

7.気まぐれトラスティーNo.1

8.うなぎ4のやきとり1

9.自転車泥棒

10.でんでん

 11.メドレー

(ジゴロ〜服部〜デーゲーム〜パパは金持ち〜

人生は上々だ〜君達は天使〜服部)

12.青十紅
13.55
14.すばやくなりたい

15.SAMURAI 5

16.ヒゲとボイン

17.ZERO

EN.ひまわり

 

ユニコーンは凄い。

昔の曲に頼らない。

過去のものを過去のものとして、現在のバンドとして活動している。

 

歌詞についてもそうだ。

メッセージ性が弱い。

と言うか意味がない。

今回のアルバムに「55」という曲がある。

ググって欲しいのだが、本当に何の意味もない。

ただ、やたらカッコいい。

 

実にこの部分に意味があると思っている。

「かっこいい」というのは若さでもなく、見た目でもない。

今この瞬間に楽しそうかどうかと言うことなのだ。

 

その点においてユニコーンは最高に「かっこいい」。

どこにも力が入っていない。

だけど、本気でバンドをやっている。

コーラスワークを聞けばよくわかる。

それが素晴らしい。

 

今年もこの時期はライブが多くなる。

ユニコーンで始まった夏をしっかり楽しみたい。

デウス

5、変化から現在に至るまでの過程(37〜45)

 

ここまでである程度自分の仕事に対する考え方の指針ができたように思える。

今後特にダイナミックな変化はない。

 

ある日プレスクライアントから、

 

「営業も手伝ってもらえないですか?」 

 

との依頼があった。

 

「できっかな…」

 

と考えたが、結局は昔もやっていた事なので、やってみる事にした。

ただ昔は個人店が取引先だったので、そこで学んだ事を活かしつつ、俗に言う大手セレクトショップをターゲットに展開する事にした。

ただ、人の商材を売り込むので勝手が違う。

 

一方でセールスまでフォローできたらそればそれで武器になると思ったので、一生懸命やることにした。

 

ここで、ある偶然が起きた。

 

FUJI ROCK FESTIVAL×GAN-BANのTシャツをデザインする事になった。

セールスで動いていて、デザインの仕事に繋がった。

しかも自分が愛してやまないイベントの。

 

こう言った多方向からの展開に自分の価値があるのかなと思うと、なんだかそれはそれで良いかもなと思った。

 

この時期はいろんな事があって(俗に言う厳しい時期だったのだけど)、ささやかな幸せで乗り越えられた気がする。

なんというか、試されているような感じというか。

また、そういう時期に時間を作ってくれた友人や取引先は今でも感謝しているし、

さらに取引が多くなって今でも続いている。

困難から逃げないということを学んだ時期でもあった。

 

次回で最後くらいにする予定です。

ではまた。

 

 

 

 

TIME

4、その後の考え方の変化(31〜36)

その2

 

デザイナーの仕事を始めて3年目くらいに、ある会社で打ち合わせをした。

いくつかのブランドを持っている会社で、その中のある部隊と打ち合わせをしていたところ、チラッと友人の顔が見えた。

そう言えばこの会社に勤めてるって話は聞いていた。

 

打ち合わせ終わりに久々に挨拶し、食事の約束をして別れた。

別日にアポを入れ、下北で待ち合わせた。

寿司を食う事になった。

久々の再会に話は弾む。

彼は突然、

 

「うちのプレスやってみない?」

 

との打診が。

いきなりのオファーに困惑するも、

 

「大丈夫、できるから!」

 

と、半ば押し切られた形でそのブランドとプレス契約をした。

本当に役に立てるのかと考えたのだが、

 

「バックアップするから!」

 

との事だったので安心していたら、その2週間後に友人は退職してしまった。

 

プレスを仕事にしたのはこんな始まりからだった。

デザイナーとプレスを両立するってのはあまり聞いたことが無かったが、

 

「確かに自分は昔はそうだったな」

 

との考えと、

 

「どちらも在庫の無い商売」

 

なのが共通していたのでまあそれもアリかと思った。

 

あと、プレスの人で過去に企画とかデザイナーの経験者って聞いた事が無かったので、その視点を持ってるのも何かの役に立つかも知れない。

 

そして、渋谷にプレスルームを作って新たなスタートを切るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

BREAK THROUGH

4、その後の考え方の変化(31〜36)

その1

 

業務委託としてデザイナーを始めた。

とは言っても最初はフルタイムの出勤ではなかったので、結構暇な生活でした。

週4日は休みだったもんな。

 

リサーチがてらいろんなお店に行っては、商品を見たり試着したり。

そこである事に気がつく。

 

「僕の欲しい(いけてると思う)商品はほぼ100%セールになる。」

 

そういうことか。

僕の好きなものは人気がないのか。

ということは、一生懸命死に筋を作っていたのか。

 

ここで、僕は自分が自分の為に行うデザインに向いてない事に気がついた。

要するに、アーティスト肌では無かった。

 

そこで業務委託の仕事では完全に割り切って仕事を行う事にした。

市場があって、そこに何を提供するのか、同じ商品でも新しい見え方は何なのか、変えてはいけないポイントはどこなのか、など。

それはそれでとても面白かった。

なんせ、自分の企画した商品がノーリスクで1000枚単位で生産されていく。

今まで感じたことのない楽しさがあった。

他の商社とコンペになって勝ち取ったダウンジャケットとか、

今まで必死こいて20枚前後の商品を売っていた自分は何だったんだ?と考えたりもした。

逆に言うとこの単位の仕事はかなりリスクが高いので、決まったはいいもののプレッシャーも半端じゃなかった。

*ダウンは何万枚とかそういう数字。

 

もちろん自分の好きなテイストのものばかりでは無かったが、作る時の脳の使い方が違ったので、あまり気にはならなかった。

またここで面白かったのが、洋服好きということが幸いした。

デザインテイストやテーマを伝えてもらえたら、なんとなくコーディネートや商品のデザインが浮かぶのだ。

そしてそれを反映させていく。

これは広く知識を持っておいた事でできた仕事だった。

 

また、もう一つ良かったのが孤独ではなかったところだ。

ドメスティックブランドを展開している人なら(多分)わかって頂けると思うのだが、

とても孤独な仕事だ。

デザイン、営業、生産、プレス、運営の全ての意思決定を一人で行う必要がある。

実際のところこれはマジできつい。

相談など、悩みを打ち明けられる人がいない。

また、自分の作った商品を自分で売り込むと言うのは否定的な意見も受け止めなくてはならない。

それが誰かとできただけでも仕事が楽しくなった。

 

出張も多かったので移動中などいろんなビジネス関連の本を読んでみることにした。

そこで今でも覚えているのが

 

「好きなことをを仕事にするのは難しい。100万円でも欲しいという人と、タダでもいらないという人が同時に顧客となるからだ。」

 

という言葉である。

極端だと思うが、これはかなり言い得ている。

特にファッションの分野においては、嗜好品と生活必需品の棲み分け方がとても難しい。

むしろ嗜好品の割合が多く、世間のムードやトレンドにかなり左右される。

よって、仕事が平均化しづらい。

ただ、時代によって浮き沈みはあるものの完全に無くなる仕事ではないという意識も持てた。

 

このタイミングで読んだ本からは社長の仕事についても学んだ。ズバリ

 

「会社を継続し続ける事。」

 

それは世の中に提供できるサービスを時代に応じて変化させる事であり、自己満足だけでは成り立たないという事である。

必要とされ続ける事を考える仕事なのだ。

確かにそれまでは自分の事ばかり考えていたように思う。

そう思えたら休眠会社を選ばなかった事に意味が見出せた。

この言葉は今でも自分の指針となっている。

 

この業務委託では、自分に向いている仕事の仕方を学んだ。

また、自分がどういう人間で何に興味があるのかを客観的に見る事ができた。

デザイナーとして3年目に突入したあたりに、また新たな出会い(再開)が更に人生を変えていく事になる。

 

それはまた次回。

その2でお会いしましょう。

 

もうかりまっか

3、実際に仕事にしてみたところ、どうなっていったのか(25〜30)

その2です。

 

最初の展示会でかなりの取引先が付いたので、これが当たり前だと勘違いしてしまった。

このまま売り上げが伸び続けると、完全に自分の実力を過信してしまった。

要するに、そのくらいの売り上げになった。

全国から通販の問い合わせ、卸からは追加依頼、新年初売りのスタジャンには並びができた。

完全に天狗になっていった。

経費もバンバン使った。

完全に見栄である。

 

しかし、それもすぐに下降線をたどる。

当たり前と言えば当たり前。

致命的だったのは、デザインが出てこない。

それもそのはず、何かのマニアでもなければ、企画の経験もない、表現手段としてブランドを立ち上げたわけでもない、ただの洋服好きなだけだからだ。

芯が無い。

何かのマネしかできない。

 

しかし展示会の締め切りはやってくる。

何を作って良いのか、迷いまくっていた。

それはきっと取引先にも伝わっただろう。

毎回コロコロ変わるテイストに困惑されていたように思う。

 

また、原価率設定も甘すぎた。

売っても売っても儲からない。

自分が理想としていたビジネスと現実のギャップに毎日苛まれていた。

 

売り上げは卸、ショップ含めてみるみる下がる。

売れないから在庫は膨らむ。

焦って方向転換を試みるも全て失敗。

趣味を仕事にした典型的な失敗のパターンだった。

 

しかし一方で良い事もたくさんあった。

それは、今でも繋がる仲間や友達にこの時期に出会う事ができたからだ。

スタイリスト、編集、デザイナー、プレスなどなど。

デザインや運営のできなさを忘れたいがために、毎日飲み歩いていたら皮肉な事に、

それが友人関係を築いてくれた。

 

もちろん良い関係ばかりではなく、傷つけてしまった人もたくさんいた。

 

ショップは2年半で終了、ブランドと呼ぶほどでもないそれは3年で終了したのだった。

多い時には7名を数えた社員も全員いなくなった。

ここから、社長とは名ばかりのプー生活が始まる。

仕事が無い社長は無職と同じだ。

 

税理士さんと話をした時に、休眠会社にすることも選択肢にあると教えてもらい色々考えたのだが、

 

「生んだ子みたいなものなんで、なんとか育てますよ」

 

との回答に至った。

*この頃子供はいなかったので、比喩です。

 

暇だったので(毎日が日曜日)ビッグブランド立ち上げの際のグラフィックをやったりして生活していた。

*ブランド名は書けないけど聞いたらビビりますよ。

 

3日徹夜して30〜40グラフィックを作って1ヶ月休む。そんな感じ。

地に足がつかない。

綱渡りの毎日だった。

 

その延長でたまたまある商社のデザイナーとして業務委託を始めた。

これがまた人生を大きく変えることになる。

ファッションを仕事にすることの、ある視点を学べたからだ。

 

続きます。

WILD ROAD

さて、

 

3、実際に仕事にしてみたところ、どうなっていったのか(25〜30)

その1です。

 

インポートしたいブランドを雑誌で調べ(relaxとフィガロだった)、それを片手に

ロンドンとニューヨークへ。

店で輸入したい旨を伝えると、

 

「日本ではBEAMS伊勢丹でやってるよ」

 

との回答が。

自分が回ったブランド全部で言われたので、「BEAMS伊勢丹すげ〜!」と思ったのを覚えている。

そしてそもそも並行輸入ではなく、日本の代理店から入れたら良かったのですが、

残念ながら全く知識が無かったのでいきなり店に行くという愚行。

考えと行動が100%リンクしてるあたり我ながらすごい。

 

結果から言うと仕入れはできなかった。

 

ニューヨークではリーバイスショップに立ち寄った際にすごくできの良い加工Gジャン(セカンド)を売っていた。

しかし人気が無かったらしく、ダダ余りしてかなりのセール価格だったので20着ほど買って帰った。

 

この時期は店の開店準備も並行して行っていたので、「さあどうしよう?」と。

そこで、オリジナルを始めた。

このままだとGジャン20枚だけが並ぶ店になるので、苦肉の策であった。

 

そしてブランド立ち上げ〜開店するまでに色々な奇跡としか言いようがないことが続いて(書けない)、順調にオープンを迎え、その後すぐ行った初回の展示会で20件以上の取引先ができた。

本当にラッキーだと思ったが、ラッキーなだけだった。

ここからは本当の自分と向き合う日々が始まるのだった。

 

次回へ続く。